ピアノにまつわる思い出から

武蔵野支所(東京都) 鈴木一典

 私には、高校時代のある友人がいた。彼は幼少期からピアノを習っていたのだが、社会問題に関心が向いたため、高校入学を機にピアノをきっぱり止め、普通科の高校に進学したのだった。なぜ音楽科に行かないのか、彼の素質を認めていた周りの大人を大いに残念がらせた。
 彼は、高校に進学すると、ロックバンドでギターの演奏をしたことはあっても、ピアノとは縁のない生活をおくっていた。そして、高校を卒業すると、市の職員として当時は勤務していたのである。ピアノは時々趣味として、弾く程度であったようだ。一方で、私は大学で経済学の研究を行っており、お互い社会運動からは、遠ざかっていた。そんなある時、彼と喫茶店に行って、久々にピアノの話になった。彼はピアノともう一度、向き合ってみたいと考えていたようである。私は「音大で、ピアノを本格的にやってみたら」とアドバイスをした。今思うと、五~六年もブランクのある友人に、音大入学を薦めるとは、随分と乱暴なことを言ったものだと反省させられる。
 「今の年齢なら来年度から入学すると、卒業するのは二五~六歳なのだから、決して遅くはないよ」と言った時、その瞬間彼の顔色が変わり、ある決意をしたように私には思われた。彼は有言実行の人で、その年の暮れまで仕事をして、翌年受験をした。受験は失敗、一年浪人の末、晴れて音大に入学したのだった。音楽は、持って生まれた資質が大きいとつくづく思う。その後の彼の活躍には目覚ましいものがあり、私を大いに驚かせた。
 この彼とは、高須博君のことである。高須君は大学を首席で卒業すると、イタリアに留学し、ローマのサンタ・チェチリア国立音楽院も首席で卒業した。卒業後は数々のピアノコンクールで優勝するなど、その活躍は枚挙にいとまがない。彼を見ていると、人生に遅いということはないのだと強く感じた。

 また、私にはピアノにまつわる思い出が、もう一つある。私の知人が日本を代表するピアニストである、井口基成先生をご自宅に招いた時のことである。歓談の後、一曲演奏をお願いしたところ、先生は快く弾いて下さったそうだ。家人は先生の演奏を、こっそりカセットテープで録音していた。先生がお帰りになられると、飼い猫を連れてきて鍵盤の上を歩かせ、これを録音し、調べたところ、井口先生が弾かれた音も、猫が歩いた音も、音質〔音色〕には、何ら変わらなかったというのである。  ピアノは、ヴァイオリンなどの弦楽器、管楽器など作音楽器と違い、たとえ演奏者が著名なピアニストあろうと、猫であっても、音質自身に変わりはない。
 しかし、音質自身は同じであっても、曲として演奏する時、弾く人によって、その作品は天と地ほどの違いになる。日ごろの鍛錬、作曲家や曲の解釈、センスと創造力によって、個性が生まれる。
 こうしたピアノ演奏だけに限ったことではない。日常生活においても、日々物事に徹し、深い心づかいで事にあたる人と、そうでない人とでは、人間の深さと広がりにおいて、自ずと差が生ずるものである。より善く生きることは、すべての人に与えられた課題であるが、日々の弛まぬ努力の中から果たされるものだと思う。
 そして、わたしもそうした生き方をこれからもして行きたい。

以上

農業を通して大自然から気づかされたこと

富良野支所(北海道) 山本和弘

 北海道富良野で農業を始めた20年前と現在とは、気候も違えば作物も変化しています。例えば、この温暖化によって、新潟のコシヒカリに並ぶ、「北海道米」が一等米として評価される時代が来るとは思いもしませんでした。
 富良野はワイン葡萄の産地ですが、ドイツ種が主流だった品種が、最近ではフランス種ピノ・ノワールも栽培される様になり評価もされ始めました。本州や海外の業者が、北海道内の農地を買い求め、何箇所もワイナリーや果樹園ができています。これは、本州で今までの作物や果物が今後出来なくなるという危機感の表れでもあります。毎年、大きな気候変動に見舞われることは実感として現れ、そして食糧危機を警戒し、世界中から北海道の地を求めてくるのは致し方ないのかもしれません。そんな環境の変化は、農家にとっても営む上で重要です。
 共済農場は、大自然に添いながら、できる限り農薬を減らし、化学肥料の低減、また必要最低限の天然物の有機肥料を使ったオーガニック認証の圃場、一部では肥料や堆肥も一切使わず、自然循環を意識した「自然農法」の畑もあります。何でそんなことをするのか。これは、他の農家を否定するつもりは全くありませんが、自然を観るに「循環」という理があることを知り、それがヒトの体に、また環境にも良いと考えるからです。さらに、農薬・除草剤を使い続けるのは、土に負担をかけるだけでなく、団粒構造ができなくなり、さらに土中に水を確保することができず、微生物をも殺し、農地が砂漠化するのです。
 自然界では、落ちた葉や朽ちた木を食べたミミズや虫を小動物が食べ糞をし、それを分解する微生物や小動物が現れ、やがて餌が無くなるとその生存率も低くなり、その内また季節が来て落ち葉がおち…と森の中ではずっと繰り返され、その中で病気にならず植物が育まれています。そんな循環があるのです。
 樹々も草も小動物も微生物も、生きては死に、死んでは生まれてこの世界は成り立って行きます。環境が変われば、それに合った動物や植物が現れて担って行きます。海もそうです。私はこう考えます。地球や自然が変わったのでは無いと。自然には理があり、その変化が流れて行くだけなのだと。管理者が人間とするならば、やはりそれは人間の所業です。
 自然の中で生きる人間が、どういう性質があってどうあるべきなのか。正しくを知り、考え実行しなければいけません。農家も、もう一度振り返る必要があります。
 そのために、「人間性」の復活が必要なのだと思います。

新しいコミュニケーション様式の中で ─話に耳を傾けることの大切さ─

一般社団法人 人間性復活運動本部 理事  藤居 創

 新型コロナウイルス感染症拡大による外出自粛を機に、この1年でウェブ会議が急速に普及した。ウェブ会議では、資料や相手の顔がパソコンやタブレットの画面上に映し出され、それを見ながら自分のマイクとスピーカの音声で話し合いを行う形態が一般的となる。ウェブ会議の特性上、相手の発話が自分の手元のスピーカから出音されるまで、0.2秒~0.5秒程度の遅延があるため、相手が話し始めたことに気づかず自分も話し始めてしまうことがある。
 二人が同時に話し始めてしまった場合、下記の3つのいずれかのケースとなる。まずは、双方ともそれに気付き、「すみません、どうぞ」と譲り合うパターンである。しかしまれに、一方は気付いて話し始めるのを中断するが、もう一方はそれに気付かず話し続ける場合もある。そういった場合は、他の気付いた人が後で「先程話かけたのはどんな内容ですか?」と発言を促す事が多い。
 最も残念なのは、双方とも自分の話を継続するパターンである。
 相手が話し始めたことに気付かずに自分の話を継続する、もしくは気付いているが話を継続する人が複数人いる会議は悲惨なことになる。強引に割り込まなければ自分の発言の機会が訪れないため、発言したい人は他の人の発言の最中に自分の発言を始める。それが全体に波及し、相手の話を一切聞かない各々の主張合戦が繰り広げられる。こうなると建設的な議論は行われず、収拾がつかなくなり会議が成立しなくなる。
 一方で、発言を譲り合う会議は円滑に議論が進む。相手の話を聞こうという姿勢が全体に伝わり、皆の信頼関係の下で落ち着いて話し合いが進み、何かしらの結論へと達することができる。
 普段のコミュニケーションでは許容されるような少しの意見の主張が、ウェブ会議では主張の連鎖を生み、容易に会議の崩壊を招くことがある。もし、他人の話を聞かずに自分の主張を押し通そうという考えがあれば、それが色濃く映し出されてしまう。
 相手の雰囲気が分かりにくいウェブ会議だからこそ、いつも以上に注意深く相手の話に耳を傾けることが必要となる。常の自分が映し出されてしまうからこそ、気遣いや心配りができる自分を作り上げていくことの大切さを改めて実感する。どのような場面においても、自分の意見に固執せず、穏やかに人の話を聞くことができる人間でありたいと思う。

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